10月31日(木)〜
11月10日(日)
11月10日(日)
(東京都中央区日本橋3丁目8-7坂本ビル3階)
松本松栄堂 東京オフィスにて 「書の美術」展を開催させて頂きます。
今回は江戸時代に書かれた書の作品を展示致します。
江戸時代の書の美術を少しでも感じて頂ければ幸いです。
今回は江戸時代に書かれた書の作品を展示致します。
江戸時代の書の美術を少しでも感じて頂ければ幸いです。
「書の美術」展を10月31日(木)から11月10日(日)まで、
東京・中央区の松本松栄堂 東京オフィス
(日本橋高島屋本館 さくら通り口すぐ)にて開催させていただきます。今回は、主に江戸時代に書かれた書の作品を展示致します。
1.本阿弥光悦 「書状」
左 : 2.近衛信尹 「渡唐天神図」 右 : 3.白隠慧鶴 「親置字」
ここに画像掲載の作品を簡単にご紹介します。
1.本阿弥光悦「書状」
本阿弥光悦(1558−1637)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての芸術家で、書は「寛永の三筆」の一人に数えられます。元和元年(1615)、徳川家康から洛北・鷹ヶ峰の地を与えられ、一族や種々の工芸職人と共に移住し、書画や美術工芸などの創作活動を統率、展開したことで知られます。
この書状は誰に宛てたのかは明らかではないが、書風から光悦50歳代の壮年期のものと考えらます。おもてなしができた事に大変満足する光悦の様子が窺えます。
2.近衛信尹「渡唐天神図」
近衛信尹(1565−1614)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての公卿で、その書は近衛流または三藐院流と呼ばれて流行し、「寛永の三筆」の一人に数えられます。和歌や連歌にも長じ、また大徳寺の春屋宗園と古渓宗陳に参禅し、沢庵宗彭とも交流がありました。
この「渡唐天神図」は、学問の神様である菅原道真が時空を飛び越え中国に渡り、無準師範から法衣を授けられたという伝説に基づくものです。冠に道服の姿で描かれ、冠の部分を「天」の字、衣を「神」の草書体で表した文字絵となっています。賛歌「梅あらばいやしき賤が伏屋まで我立ち寄らん悪魔しりぞけ」は、天神の力を感得しうる呪歌として伝承しました。
3.白隠慧鶴「親置字」
白隠慧鶴(1685−1768)は、江戸時代中期の禅僧。駿河(静岡県)原宿の出身で、「駿河には過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠」と謳われました。臨済宗中興の祖と呼ばれ、説法や書画を通して民衆教化に努めたことで知られています。
この作では、「親」字を大書し、続けて白隠の仮名法語集『主心お婆々粉引歌』に収まる「孝行するほど子孫も繁昌 おやは浮世の福田じや」を淡墨でぼってりと書いた、白隠80歳代の書です。福田とは、田が作物を生み出すように、福徳を得させる人のことを意味します。
本阿弥光悦(1558−1637)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての芸術家で、書は「寛永の三筆」の一人に数えられます。元和元年(1615)、徳川家康から洛北・鷹ヶ峰の地を与えられ、一族や種々の工芸職人と共に移住し、書画や美術工芸などの創作活動を統率、展開したことで知られます。
この書状は誰に宛てたのかは明らかではないが、書風から光悦50歳代の壮年期のものと考えらます。おもてなしができた事に大変満足する光悦の様子が窺えます。
2.近衛信尹「渡唐天神図」
近衛信尹(1565−1614)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての公卿で、その書は近衛流または三藐院流と呼ばれて流行し、「寛永の三筆」の一人に数えられます。和歌や連歌にも長じ、また大徳寺の春屋宗園と古渓宗陳に参禅し、沢庵宗彭とも交流がありました。
この「渡唐天神図」は、学問の神様である菅原道真が時空を飛び越え中国に渡り、無準師範から法衣を授けられたという伝説に基づくものです。冠に道服の姿で描かれ、冠の部分を「天」の字、衣を「神」の草書体で表した文字絵となっています。賛歌「梅あらばいやしき賤が伏屋まで我立ち寄らん悪魔しりぞけ」は、天神の力を感得しうる呪歌として伝承しました。
3.白隠慧鶴「親置字」
白隠慧鶴(1685−1768)は、江戸時代中期の禅僧。駿河(静岡県)原宿の出身で、「駿河には過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠」と謳われました。臨済宗中興の祖と呼ばれ、説法や書画を通して民衆教化に努めたことで知られています。
この作では、「親」字を大書し、続けて白隠の仮名法語集『主心お婆々粉引歌』に収まる「孝行するほど子孫も繁昌 おやは浮世の福田じや」を淡墨でぼってりと書いた、白隠80歳代の書です。福田とは、田が作物を生み出すように、福徳を得させる人のことを意味します。
4.与謝蕪村「俳画」
与謝蕪村(1716−1783)は、江戸時代中期の俳人にして画家。池大雅とともに「文人画」を大成し、大雅との合作「十便十宜図」は国宝に指定されています。また、松尾芭蕉・小林一茶と並んで江戸時代の三大俳人と呼ばれます。
この俳画では、長良川の鵜飼を見物する面々を描き、画面上部に蕪村の晩年の句文集『新華摘』に載る「殿はらの 名古屋㒵なる 鵜河哉」を書いています。季語は「鵜河(川)」で夏の語で、「男たちの瓜実顔の温和ぶり、この鵜川でも変わらないなあ」という意です。
5.池大雅「一行書」
池大雅(1723−1776)は、江戸時代中期の文人画家にして書家。画は与謝蕪村ともに「日本南画の大成者」と称され、書は唐様を基礎に置きつつ、独創的な書法を確立しました。また、大雅29歳の時に白隠慧鶴に参禅したことでも知られます。
一行に揮毫した「一缾春水自煎茶」は『全宋詩』に収まる周氏の七言絶句「春水」の最後の句で、「一瓶の春水で自分で茶を煎じて飲むばかりである」という意です。
6.良寛「書状」
良寛(1758−1831)は、江戸時代後期の禅僧。托鉢をしながら多くの詩や歌を詠み、それを近在の人々に書き与えました。その書は「秋萩帖」、懐素「自叙帖」「千字文」、王羲之の法帖などの古典を学び、独自の境地を開きました。
この書状は、近い親戚関係にあった与板(新潟県長岡市)の山田杜皐に宛てたものです。『良寛墨蹟大観』第五巻・書状篇に収録され、「良寛が乙子神社社務所に入って間もなくのものと思われ、文化の末年ころであろう」と解説が付されています。
与謝蕪村(1716−1783)は、江戸時代中期の俳人にして画家。池大雅とともに「文人画」を大成し、大雅との合作「十便十宜図」は国宝に指定されています。また、松尾芭蕉・小林一茶と並んで江戸時代の三大俳人と呼ばれます。
この俳画では、長良川の鵜飼を見物する面々を描き、画面上部に蕪村の晩年の句文集『新華摘』に載る「殿はらの 名古屋㒵なる 鵜河哉」を書いています。季語は「鵜河(川)」で夏の語で、「男たちの瓜実顔の温和ぶり、この鵜川でも変わらないなあ」という意です。
5.池大雅「一行書」
池大雅(1723−1776)は、江戸時代中期の文人画家にして書家。画は与謝蕪村ともに「日本南画の大成者」と称され、書は唐様を基礎に置きつつ、独創的な書法を確立しました。また、大雅29歳の時に白隠慧鶴に参禅したことでも知られます。
一行に揮毫した「一缾春水自煎茶」は『全宋詩』に収まる周氏の七言絶句「春水」の最後の句で、「一瓶の春水で自分で茶を煎じて飲むばかりである」という意です。
6.良寛「書状」
良寛(1758−1831)は、江戸時代後期の禅僧。托鉢をしながら多くの詩や歌を詠み、それを近在の人々に書き与えました。その書は「秋萩帖」、懐素「自叙帖」「千字文」、王羲之の法帖などの古典を学び、独自の境地を開きました。
この書状は、近い親戚関係にあった与板(新潟県長岡市)の山田杜皐に宛てたものです。『良寛墨蹟大観』第五巻・書状篇に収録され、「良寛が乙子神社社務所に入って間もなくのものと思われ、文化の末年ころであろう」と解説が付されています。
左 : 4.与謝蕪村 「俳画」 右 : 5.池大雅 「一行書」
6.良寛 「書状」
展示作品一覧
本阿弥光悦「書状」
松花堂昭乗「渡唐天神図」
松尾芭蕉「俳句」
白隠慧鶴「親置字」
寂厳「三行書」
与謝蕪村「俳画」
慈雲飲光「梵字一行書」
池大雅「一行書」
浦上玉堂「書」
良寛「書状」
貫名菘翁「三行書」
富岡鉄斎「書状」
という13点の作品で構成される小さな展覧会です。
江戸時代の書の美術を少しでも感じていただければ幸いです。
松花堂昭乗「渡唐天神図」
松尾芭蕉「俳句」
白隠慧鶴「親置字」
寂厳「三行書」
与謝蕪村「俳画」
慈雲飲光「梵字一行書」
池大雅「一行書」
浦上玉堂「書」
良寛「書状」
貫名菘翁「三行書」
富岡鉄斎「書状」
という13点の作品で構成される小さな展覧会です。
江戸時代の書の美術を少しでも感じていただければ幸いです。
会場:松本松栄堂 東京店
〒103-0027東京都中央区日本橋3丁目
8-7坂本ビル3F
営業時間:10:00 - 18:00