狩野探幽 (かのうたんゆう)
狩野探幽(1602~1674)は、1617年に江戸に移り幕府の絵師となり、その4年後に江戸城鍛冶橋門外に屋敷を拝領し、鍛冶橋狩野家を興した。
次男・狩野尚信は木挽町に屋敷を拝領し、末弟・狩野安信は狩野宗家を継いで中橋に屋敷を拝領した。
二条城障壁画を描いた探幽は、やがてそれ以前の狩野派の画風を一変させ、瀟洒で淡泊な画風を確立してゆく。
岡倉天心「日本美術史」より抜粋
「幼より画を巧みにして、十三歳の時画きし海棠の下に猫の眠る図を見し人、古永徳かと疑いしと。
十五歳の時、竜を巧みにし、多く画きて神社等に供す。
十六歳の時すでに狩野家中にありて比肩するものなし。
二十二歳におよびては世人も知るほどの上手となれり。
江戸狩野の起しは実にこの人による。
かくのごとき大家にして長生きなりしゆえに、多く画を作れり。
その勉強はなはだしく、早朝より夜深更にいたるまで、手に筆を離さざりしと。
その筆意は弱年の折画きしものは大いに興以に似たり。
その画風を大別して四段となす。
ごく若書きと探幽の斎書きの始めと終り、および行年書きなり。
斎書きの中、三十五六より四十歳くらいまで興以風なりしも、四十より五十の間は牧谿その他、淡泊なる画を好み、五十歳くらいにいたりていわゆる探幽なるもの出で来りしなり。
ゆえにその妙を称すべきは斎書きの末ならんか。
行年書き、すなわち六十歳以後にいたりては、筆は枯れて思入れ深きにすぐるならん。第一の若書きは興以に近し。
吾人今日探幽を見るに、いかにもその考えは雪舟を一歩柔かにせしものにして、正信、元信のごときを、筆を節して茶の湯のさかんに行われたる時勢に適せしめたがごとし。
その風温和にして、筆力は面白きも、これに対してその考えを察する事あたわざるべし。
もっとも二百年前の画家を論ずるには、二百年前としてこれを評さざるべからず。
その筆の巧みなるはいうまでもなし。」
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