良寛 (りょうかん)
良寛(1757~1831)は、越後国出雲崎の名主で神官を務めた山本以南の長男として生まれた。幼名は栄蔵、のちに文孝と改めた。字は曲、号は大愚と称した。大森子陽に漢学を学び、一旦は名主を継ぐべく見習いとなったが、18歳のときに曹洞宗光照寺の玄乗破了の門に入る。4年後、光照寺に巡錫した備中玉島円通寺の大忍国仙に従って修行に打ち込み、20年ほど円通寺を拠点に、時に行脚に出たりして過ごした。その後、越後に戻ったが、生家には帰らず、国上山中の国上寺五合庵、乙子神社境内の草庵、島崎の木村家などに住み、托鉢や良寛を慕う人びとの布施で糊口をしのいで、生涯、寺を持つことはなかった。
詩や歌を詠み、書を得意として近在の人びとに書き与えることも多かった。良寛が座右にした「秋萩帖」の墨帖が残されていて、実際に臨書を繰り返していたことが知られている。このほかにも、懐素「自叙帖」「千字文」、王羲之の法帖、「瘞鶴銘」、黄山谷「書廬山七仏偈」などの古典を学んでいた。脱俗的に見える書には、必要な骨格のみが残されていて、この書が分厚い古典学習の上に成り立っていることが理解される。