副島種臣 (そえじまたねおみ)
副島種臣(1828~1905)は、佐賀市鬼丸に藩校弘道館教授であった枝吉種彰の二男として生まれ、32歳で副島家の養子となった。幼名は竜種、名は種臣、通称は次郎。蒼海は号で、他に一々学人がある。
父から薫陶を受け、国学や漢学に通じ、明治維新草創の際に元勲として活躍した功労者である。維新後は、外務卿に任ぜられ、遣露大使、清国における日清修好条規の交渉を担う特命全権大使などを務めた。征韓論に敗れて一旦下野するが、明治9年(1876)から2年間、清国に漫遊して文人墨客と交わり、詩の応酬を楽しんだ。帰国後、枢密顧問官や内務大臣などを務めた。
漢魏六朝の蒼古な詩風の漢詩人としても知られ、北碑を根底にした重厚感のある書も得意とした。楷行草隷と揮毫する書体の幅が広いばかりでなく、その書きぶりも場面によって多様で、時に書法という枠を測ることのできないスケールの大きさがある。中林梧竹との交際は親密で、肝胆相照らし書論を交わす仲であった。